キリストの安息に入るために、恐れる心を持とうではありませんか
申命記28章に、すべての祝福と、すべての呪いのリストがあります。祝福は次の言葉で始まっています。「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に確かに聞き従…うなら…次のすべての祝福があなたに臨み」(1-2節)。そして、呪いは次の言葉で始まっています。「もしあなたの神、主の御声に聞き従わ…ないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み」(15節)。祝福と呪いは、主の声に耳を傾けるか、無視するかにかかっています。
礼拝における従順とは、私たちが神の声を聞く姿勢と関係に入るために示された方法です。言い換えれば、礼拝する姿勢を持っていなければ、神の声を聞くことはできません。そして、神の声を聞くことで神の安息に入ることができるのです。このように、礼拝は安息への道です。どのように礼拝すべきかを理解している人だけが、真の安息を楽しむことができます。
したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています。神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。(へブル4:9-11)
聖書は、神の民が安息に入ることができなかったのは、不従順のためであったという事実を明らかにしています。私は、安息日を守りなさいとか、日曜日を安息日としなさいと言っているのではありません。ただ、神が私たちに安息を命じているという事実を見過ごしてしまう可能性があることを指摘しているのです。
私は、もし週7日、毎週忙しくしているなら、神に喜ばれないと考えるようになりました。さらに、そのような忙しさは、健康を害するに違いありません。神は、安息日の休息について、私の心に語りかけておられます。神はあなたの心にも語ってくださると信じます。そして、神の聖なる、永遠の、変わることのない律法を、あなたが自然に守ることができるようにさせてくれるでしょう。
【祈り】
主よ、あなたの安息に入ることが約束されていることを感謝します。私は、「この安息に入るように努める」ことを宣言します。私は、キリストの安息に入るために、恐れる心を持ちます。アーメン。