イエスの血によって、私は一度も罪を犯したことがないかのように義とされています
ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。(ローマ5:9)
聖書で「正しい」という語を見つけたら、「義」と置き換えることができます。これは、旧約聖書のヘブル語にも、新約聖書のギリシャ語にも適用できます。英語のNKJVの翻訳者たちは、同じ語を「義」、「正しさ」と交互に翻訳しました。彼らは、法的手続きの文脈では「正しい」という語を使い、実際の生活の文脈では「義」を用いているようです。しかし、原文は一つの語なのです。
問題は、「義認」という語の使い方です。この語は、多くの解釈では天の法廷での法的決定を指して使われています。しかし、そのような使い方は、この語の意味の半分しか伝えられません。「義と認められる」とは、正しいとされる、義とされることです。「義」は、私たちの生活の場所、すなわち家庭、職場、人間関係にまでも及ぶものです。「正しさ」は、天ではなく、別の場所で法的に認められたものと言えます。聖書は、私たちはイエスの血によって義とされたと言っています(これは完璧で正しい翻訳です)。義とされていなければ、自分を正しい者と見なすことはできません。義認とは、法的な儀式や肩書を変えること以上のものです。それは、イエスの血によって生み出される、人格と人生の変化です。私たちは自分のものではない義、つまりイエス・キリストの義によって義とされています。
【祈り】
主よ、イエスさまの血を感謝します。私は、イエスさまの血によって、義とされました。それは、自分の義ではありません。イエスさまの血によって、私は一度も罪を犯したことがないかのように義とされています。アーメン。