ご自分のいのちを私たちに与えるために、イエスは死なれました
私たちは、最初に十字架に直面すると、驚いてひるんでしまいがちです。しかし 、 イエスの十字架は、どんな動物も見つけることができず、どんな鳥も見ることがで きず、また他のどんな被造物も知らない隠れ場への扉です。(ヨブ記28章7-8 を参照。)それは霊的な領域にあります。パウロはこう言いました。
こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上 にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられま す。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。あなた がたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうち に隠されているのです。あなたがたのいのちであるキリストが現れると、その ときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。(エペソ2:4-6)
鍵となる言葉、「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されて いる」は、次に来る世のことではなく、「今現在」のことを言っています。「キリ ストとともに神のうちに隠される」とは、隠れ場にいることを意味します。その隠 れ場とは、イエスがご自分のためにではなく、私たちの罰をご自分の身に負って、 私たちの身代わりとなって死なれたことです。
イエスが死んでよみがえられた時、私たちも死んでよみがえった、というのが聖 書を信じる私たちの理解です。私たちは死を通り、感覚も識別できず、被造物も気 づくことができない領域に入りました。私たちはキリストのうちにおり、また神の うちにいます。神とキリストを通してでなければ、どんなものも私たちに触れるこ とはできません。今、私たちは肉体をもって生きていますが、私たちのいのちは目 に見えるこの世界にはありません。土の器である私たちは多くの困難や圧力を経験 するかもしれませんが、永遠で朽ちないいのちを持っています。これが「全き平 安」です。何が起ころうとも、キリストにあって私たちは、すべての害と危険から 守られたいと高き方の隠れ場にいます(詩篇91:1-2参照)。その隠れ場の扉 は十字架です。
【祈り】
イエスさま、あなたの十字架のみわざを感謝します。十字架によって、 私はいと高き方の隠れ場に入ったことを宣言します。ご自分のいのちを私に与える ために、イエスさまが私に代わって死なれたので、私はすべての害と危険から守ら れています。アーメン。