信仰の告白を堅く保とうではありませんか
大祭司としてのイエスの地位は、私たちの信仰の告白との関係があります。へブル人への手紙から三つの箇所を見てみましょう。一つ目は、ヘブル3章1節です。「ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。」イエスは、贖いを提供するために神から遣わされた使徒でした。贖いを提供したあと、神の前で私たちの大祭司となるために神のもとへ戻って行かれました。イエスは私たちが告白する大祭司です。つまり、告白がなければ、大祭司は存在しないのです。私たちが地上で口を閉ざすなら、私たちは天において自分の弁護者を沈黙させることになります。しかし、私たちが告白すればするほど、イエスの大祭司としての働きを解放するのです。
二つ目は、ヘブル4章14節です。「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」「堅く保つ」とは、何かを言い、それを言い続ける、という意味です。引き下がってはいけません。勇気を失ってはいけません。
三つ目は、
「また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのです…約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか」(へブル10:21、23)。
ここでの変化に注目してください。「信仰の告白」ではなく、「希望の告白」です。私たちが信仰を告白し続ければ、それは希望となります。
「信仰は、望んでいることを保証し」(へブル11:1)。
私たちが信仰の本質を築いた時、希望が訪れます。私が考える聖書的な希望の定義は、「良いものを期待する確信」です。しかし、私たちは動揺することなく告白を堅く保たなければなりません。なぜ、「動揺しないで」と言われているのでしょうか。次のようなイメージで説明できるでしょう。飛行機に乗っていて、シートベルト着用のサインが出たら、それは乱気流が予測されるという意味です。同様に、「動揺しないで」とは、反対があることを予測しなさいということを言っているのです。しかし、告白を保ち続けるなら、私たちは戦いに勝利します。
【祈り】
イエスさま、あなたは私たちが告白する大祭司であることを感謝します。イエスは天で神の前で私の弁護者であることを宣言し、私は動揺することなく、信仰の告白を堅く保つことを宣言します。アーメン。