信じることと、入ること

キリストの安息に入るために、恐れる心を持とうではありませんか

信じた私たちは安息に入るのですが、「わたしは怒りをもって誓った。『彼らは決して、わたしの安息に入れない』」[詩篇95篇からの引用]と神が言われたとおりなのです。もっとも、世界の基が据えられたときから、みわざはすでに成し遂げられています。なぜなら、神は第七日について、あるところで「そして神は、第七日に、すべてのわざを終えて休まれた」と言われ、そのうえで、この箇所で、「彼らは決して、わたしの安息に入れない」と言われたからです。                                             (へブル4:3-5)

この箇所では、「信じた」は過去形で、「入る」は現在形です。私たちがすでに信じていなければ、神の安息に入ることはできません。何度も信じ続けるのではなく、一度信じるということです。決断し、それに基づいて安息の中に入っていくことができるのです。信じることを何度も決意しなければならない人は、安息に入ることはできません。信じると決意した人たちだけが安息に入ることができるのです。

この安息というテーマをさらに探るために、旧約聖書を見てみましょう。創世記2章2節に、こうあります。「神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。」神の安息とは、ご自身がなさっていたすべてのわざをやめることです。神は疲れたから休まれたのではないと思います。むしろ、リラックスすることを楽しまれました。腰を下ろし、自分が造ったすべてのものを見て、それを楽しむ時間を取ったのです。

自分がしたこと、作ったものを楽しむ時間を取っている人はどれくらいいるでしょうか。今日、ほとんどの人が何かをやり終えたら、次のことに取り掛かることで頭はいっぱいです。しかし、神が確立されたパターンは、何かをやり終えた後に、楽しむ時間を持つことです。どんなことでも、やり終えたら、リラックスし、それを喜ぶことが神の方法です。事実、リラックスする能力は、神の能力なのです。

【祈り】

 主よ、あなたの安息に入ることが約束されていることを感謝します。神さまが共有したい喜びの一つは、神さまの安息であると宣言します。神さまが入られた安息の中に私が入ることを望んでおられます。私はキリストの安息に入るために、恐れる心を持ちます。アーメン。

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