正しい恐れの中を歩む

キリストの安息に入るために、恐れる心を持とうではありませんか

へブル人への手紙には、「~(しよう)ではありませんか」というフレーズがいくつか出てきます。その一つ目は、

「こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか」(へブル4:1)

です。この言葉に驚きや抵抗を感じますか。ほとんどのクリスチャンは、恐れる心を持っていません。

私を主に導いてくれたのは、イギリスのヨークシャー地方に住んでいた素晴らしいクリスチャン夫婦でした。第二次世界大戦後に彼らを訪ねたとき、彼らは霊的に良い状態ではありませんでした。その夫は、クリスチャン生活には恐れの必要はないと信じていました。私は、それは恐れの種類によると指摘しました。詩篇19篇は、

「主からの恐れはきよく、とこしえまでも変わらない」(9節)

と言っています。その種の恐れには終わりがありません。その人は、薬を絶対に使わないと決めており、そのことから傲慢さが伝わってきます。私はそれを、いかなる恐れも拒絶した彼の態度から来ていると考えました。悲劇的なことに、彼は糖尿病を発症し、脚を切断しなければなりませんでした。彼は、自分の信仰が癒やしにつながらなかったショックから立ち直ることに時間がかかりました。その根本的な問題は、ある種の恐れはクリスチャン生活の一部であると理解していなかったことだと思われます。ヘブル人への手紙にある、「恐れる心を持とうではありませんか」の言葉は、未信者にではなく、信者に向けられたものです。神が私たちに約束してくださったものを得られない可能性が常にあることを、心に留めておいてください。冒頭の聖句の節全体は、「こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう」と言っています。

すべての約束には両面性があります。約束は良いものを提供するものですが、もしあなたがその約束を信じなければ、約束のものを得ることができません。クリスチャン生活も同様です。良いものが得られるはずなのに、逃してしまう可能性は常にあります。私たちが神の安息に入ることができるためには、このような恐れの態度を持たなければならないでしょう。

【祈り】 

主よ、あなたの安息に入ることが約束されていることを感謝します。私は、神の安息に入るために、正しい恐れの態度で神さまの前に来ることを宣言します。私はキリストの安息に入るために、恐れる心を持ちます。アーメン。

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