キリストの安息に入るために、恐れる心を持とうではありませんか
神の安息に入ろうという呼びかけについてさらに深く見ていくにあたり、次のいくつかの質問について考えてみてください。時間を有効に用いているだろうか。安息することの本当の意味を知っているだろうか。自分を制して、今していること、考えることをやめることができるだろうか。自分がすべきことについて考えるのをやめて、リラックスすることができるだろうか。
神は成果よりも、人格を重視されるお方です。成果は、時間という領域の中でのみ重要ですが、人格は永遠のものです。人格は、私たちが永遠にどのような者であるかを決定づけるものです。
イザヤは、光り輝く生き物と、主の御座がある天の幻を見ました(イザヤ6章参照)。セラフィム(ヘブル語でセラフ。「火」という語に直接関連している)と呼ばれる被造物によって、天で礼拝が行われていました。セラフィムは、神の御座のそばにいる火のような生き物で、昼も夜も、「聖なる、聖なる、聖なる主」と叫んでいました(イザヤ6:3)。それぞれに六つの翼があり、それを巧みに使っていました。二つの翼で顔を覆い、別の二つの翼で足を覆い、残りの二つの翼で飛んでいました(2節)。顔と足を覆うことは、礼拝する謙遜さであり、飛ぶことは、奉仕の行為であると、私は解釈しています。
神への感謝と、声を上げて主をたたえること、また、踊ること、手を叩くこと、歌うことなども重要だと思います。しかし、私が自分の翼で顔と足を覆い、謙遜になって礼拝し、神が言われることに耳を傾ける時が来ます。
「今日もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」(詩篇95:7-8)。
礼拝する姿勢を身に着け、安息することを学びましょう。主の御霊が探しておられるのは、神に自分の心のすべてを向けている人であることを忘れないでください。そのような人格を持った人々に、神はご自身の強さを示してくださいます。
【祈り】
主よ、あなたの安息に入ることが約束されていることを感謝します。私は、「礼拝する姿勢を身に着け、安息することを学ぶと宣言します。私は、キリストの安息に入るために、恐れる心を持ちます。アーメン。