私たちに癒やしを与えるために、イエスは打たれました
神にあって新しく生まれることは、非常に重要な経験です。私たちは新しく生ま れなければ、神の国を見ることも、そこに入ることもできません(ヨハネ3:3- 5参照)。しかし、それは一度きりの体験ではありません。救いは継続的なプロセ スです。救いの一部は水のバプテスマを受けることです。論争を起こすつもりで言 うのではありませんが、水のバプテスマを受けなくても、新しく生まれることは可 能です。しかし、救われたいと願うなら、水のバプテスマは救いのプロセスの重要 な部分です。「信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マルコ16:16)か らです。
「救われる」とは、たましいが天に行くために整えられることよりはるかに大き な意味があります。「救いの概念は、たましいを天国に送るためのパッケージだ」 と言った人がいます。ある意味では正しいかもしれませんが、救いには、天国に行 く準備以上の多くのことが含まれているのです。
著者が「救われる」という意味のギリシャ語の sozo という語を使った新約聖書 の一節を見てみましょう。聖書でこの言葉が出てくる箇所を見ると、救いには何が 含まれているのかが分かるでしょう。
マタイの福音書は、イエスの病人への働きについてこう言っています。「人々は 病人をみなイエスのもとに連れて来て・・・そして、さわった人たちはみな癒やさ れた[完全になった/英語 KJV 他]」(マタイ14:35-36)。この「癒やされ た」に使われている動詞は sozo ですが、その前に「徹底的に」という意味のギリ シャ語の前置詞が付いています。「徹底的に救われる」とは、完全に癒やされるこ となのです。この箇所は、たましいの状態だけを言っているのではありません。病 気の人々についても言っています。そして、イエスに触れた人たち全員が完全に救 われました。私たちに与えられている救いは、それほど完全なものなのです。
【祈り】
イエスさま、あなたの十字架のみわざを感謝します。徹底的に救われる ことは、完全に癒やされることであり、私に癒やしを与えるために、イエスさまが 打たれてくださったことを宣言します。アーメン。