イエスの血によって、私は一度も罪を犯したことがないかのように義とされています
宗教的な人々は、自分がどれほど罪深いかを告白することで、自分は聖い者とされるのだと考えています。一般的に、正義を主張すれば私たちはうぬぼれ、自分の失敗や矛盾、犯した過ちを語り続ければ、宗教的になります。
私が育った教会では毎週日曜日の朝、「私たちみじめな罪人をお赦しください」と言わなければなりませんでした。私はいつも、みじめな罪人になりたくはないと感じていましたが、周りの罪人たち(信者たち)を見ると、確かに私たちはみんなみじめだと納得できました。私は最終的にこう考えました。もしすべての宗教は私をみじめにするだけなら、私は宗教なんて信仰せず、中途半端でもみじめではない罪人でいいと。それが、主に出会うまでの私の態度でした。
宗教的な言い回しにはいつも、「私たちはみじめな罪人です。罪を犯し、迷える羊のように神の道から外れ、やってはならないことをし、やるべきことをやり残しています」というような言葉が出てきます。
いま私は、そのような言葉を言うことができません。偽善者になってしまうからです。次の日曜日にはまた、「自分は罪を犯し、道を外し、やってはいけないことを、やるべきことをしなかった」と言わなければならないと分かっていながら、月曜日の朝に、罪に対する勝利の祈りをすることができるでしょうか。それは、私の信仰の土台を完全に損なうことになります。それは良いこと、非常に敬虔に聞こえますが、そうではありません。
みことばに沿った告白をし、それを信じましょう。「イエスさまの血によって、私は一度も罪を犯したことがないかのように義とされています。」
【祈り】
イエスさまの血潮を感謝します。イエスさまの義で、私は義とされていることを宣言し、義の実がもたらす平和、確信、喜びの中に信仰によって踏み出します。イエスさまの血によって、私は一度も罪を犯したことがないかのように義とされています。アーメン。