賛美のいけにえを絶えずささげようではありませんか
アロンとその子孫がイスラエルの民に宣言するように指示した祭司の最高の祝福は、次の言葉に表れています。
「アロンとその子らが、わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしが彼らを祝福する」(民数記6:27)。
多くの場合、他者のためにささげる最も効果的な祈りは、主イエスの御名を宣言する、賛美と感謝の祈りです。祈っている相手の上にイエスの御名を置く時、彼らに神の祝福を宣言しているのです。私たちが彼らのために単純に神を賛美するだけで、どれほど人々の霊を高めることができるかを理解している人は少ないでしょう。それは、とりなし手としての私たちのミニストリーの大きな部分を占めます。
インドがまだイギリスの支配下にあった19世紀、インドのパンジャブ地方で活躍した「祈りのハイド」と呼ばれた宣教師がいました。ハイドは他のどんなミニストリーよりも祈りに集中しました。初期のころ、彼はあるインド人伝道師に出会いましたが、その人は反応が薄く、冷淡だと感じました。ハイドはその人のために祈り始めたとき、「主よ、あなたはあの人がどれほど冷たい人か知っておられますよね」と言おうとしていました。しかし、聖霊は、「しもべのことを、その主人に中傷してはならない」という箴言30章10節を思い起こさせて彼を止めたのです。
ですから、ハイドはアプローチを変えることにしました。その伝道師の生き方の良い部分すべてを挙げて、神に感謝し始めたのです。数か月のうちに、その伝道師は伝道師として目覚ましい成果を上げるようになりました。何が彼を変えたのでしょうか。祈りの中で非難されるのではなく、感謝の対象とされたからです。
もし、私が誰かのために神に感謝できないのなら、おそらく私にはその人のために祈る資格がない、と神は教えてくださいました。私の祈りが益よりも害を及ぼすかもしれないからです。それなら祈らないほうがいいのです。民数記6章27節で言われている通りです。
【祈り】
主よ、あなたに感謝し、あなたを賛美します。私は、「しもべを中傷する」のではなく、その人に神さまの祝福があるように祈ります。私は賛美のいけにえを絶えずささげます。アーメン。