私のからだは、イエスの血によって贖われ、聖められた聖霊の宮です
この告白をするとき、私たちは過激的である必要があります。キリスト教はある意味、過激的な宗教です。「過激的(radical)」とは、「根源を扱う」という意味です。バプテスマのヨハネが福音とイエスを紹介したとき、こう言いました。「斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます」(マタイ3:10)。神は数本の枝を切り落とすのでも、幹を切り落とすのでもありません。根元から切り落とします。神は良い実を結ぶことを求めておられます。木が良い実を結ばなければ、神はそれを切り倒しなさいと言われるのです。
若い世代の間では、かなり過激的になる傾向があります。私は、この傾向を正しい方向で励ます必要があると思います。正直なところ、私たち古い世代は過激であるよりも妥協してしまうことが多くありました。私たちは、一見すると過激なことを求めることが多い聖霊と一つになることが必要です。
イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。(ローマ8:11)
パウロは、ここで驚くべき宣言をしています。それは、イエスを死者の中からよみがえらせたのは、神の御霊である聖霊だと言ったのです。そして、その同じ聖霊があなたのからだの中にあるなら、聖霊はその力によって、あなたのからだに必要な多くのことを行うことができるのです。何と過激な真理でしょうか。
【祈り】
主よ、イエスさまの血潮と聖霊の働きを感謝します。私は、聖霊と一つになって過激的な従順を追求することを宣言します。それは、私のからだが、イエスさまの血によって贖われ、聖められた聖霊の宮だからです。アーメン。