恵みの下で神に従う

私は聖なる者です

律法の下で神に従うことと、恵みの下で神に従うことの違いは何でしょうか。どちらも、最終的な目的は神に従うことですが、それらは異なる方法で達成されます。この点を説明するために、旧約聖書のモーセの律法による命令と、新約聖書の一つの書簡にある簡潔な命令を見てみましょう。どちらも同じ言葉が使われているので、私たちが律法の下にいても、恵みの下にても、その命令は当てはまります。

旧約聖書では、神はモーセを通してイスラエルの民に語りました。こう言っています。「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである」(レビ11:45)この文脈において、「聖なる者となること」は、レビ記の残りの部分に詳しく書かれている一連の非常に複雑な規定の数々を守らなければならないことを意味します。この場合、聖さは「こうしなさい。ああしてはいけない」という律法主義の方法によって達成されます。

新約聖書からは、イエスの贖いを受け入れたクリスチャンに宛てて書かれた手紙を見てみましょう。

「従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである』と書いてあるからです」(Ⅰペテロ1:14-16)。

引用句はレビ記からのものですから、ペテロは私たちが動物のおいけにえや病、漏出物などによる汚れに関する旧約聖書のすべての規定を守らなければならないと言っているのでしょうか。どう見ても違います。つまり、ペテロは他のことを期待しているに違いありません。律法による聖さは、「これらの規定をすべて守らなければならない」と言います。しかし、信仰による応答は、「私は一連の規定に従うのではなく、イエスに私の内側で、私を通して聖なる者となるようにしていただくのです」というものです。

【祈り】

イエスさま、私を召してくださったことを感謝します。聖さは、すべての規定に従うことによってなされるものではなく、イエスさまの贖いによってなされるものだと宣言します。私の内におられるイエスさまは私の聖さです。私は聖なる者とされています。アーメン。

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