私は聖なる者です
旧約聖書では、動物のいけにえの血が流された後、そのいけにえは清い水で洗われなければなりませんでした。ヨハネの手紙第一5章6節は、イエスは「水と血によって来られた」と言っています。血とは、十字架で流されたキリストの贖いの血です。水とは、みことばの清い水のことです。キリストはご自身の血によって私たちを贖い、次にみことばによる水の洗いによって私たちを聖い者にしてくださるのです(エペソ5:25-26を参照)。
イエスは弟子たちのために父にこう祈りました。「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です」(ヨハネ17:17)。みことばは、おもに私たちの考え方を変えることで私たちを聖別します。聖めは外側からではなく、内側から始まるのです。聖めの「宗教的」な方法は、服の長さや髪を切ったり、口紅をつけたりしないなどです。しかし、ローマ人への手紙12章2節でパウロは、「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります」と言っています。エペソ人への手紙4章23節では、こう言っています。「霊と心において新しくされ続け。」聖霊は、みことばの真理によって私たちの心を新しくしてくれるのです。
「洗脳」という言葉は通常、否定的な意味合いを持っています。しかし、この言葉は、聖霊が私たちの心を新しくし、みことばの清い水で洗ってくれることを肯定的に表現するのに適切と言えます。このことは、私たちが聖くされるために不可欠な信仰によって起こらなければなりません。神の霊と神のことばは決して変わることがありません。私たちの信仰は、神がこれらの媒体を通して与えてくださるものを受け取ることを可能にします。さらに、「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現する」(ローマ10:17)ので、みことばと私たちの信仰の間には直接的な関係があります。みことばに耳を傾ければ傾けるほど、私たちの信仰は拡大し、神が私たちの聖めのために備えておられるすべてのものを受け取ることができるようになります。
【祈り】
イエスさま、私を召してくださったことを感謝します。私は、みことばの清い水によって洗われ、新しくされていると宣言します。私は神さまが用意してくださったすべてを受け取ります。私は聖なる者とされているからです。アーメン。