私の御父は、私を造られました
創世記2:7に、人の創造が記録されています。人格を持つ神が、人格同士での交わりをするために、人格を持つ一人の人を造られました。これは、人格と人格の関係です。抽象的なものではありません。宇宙に働く何か神秘的な力というようなものではなく、人格であるお方が、人格的な交わりを持つために、他の人格を創造されたということです。このことは私に、神が人を創造された一つの主な目的が、人との人格的交わりを楽しまれることであったことを、はっきりと教えてくれています。
その場面を思い描いてみてください。主が膝をついて手にちりを取り、水とこねて、人の体を形作られました。でも、それにはいのちがありませんでした。それから、目を見張るような驚くべきことが起こりました。創造主が身をかがめ、ご自身の唇をその土のかたまりの唇に置き、ご自身の聖い鼻孔をその土のかたまりの鼻孔に合わせ、そうして、いのちの息を吹き込まれたのです。主の息は土のかたまりの隅々まで行き渡り、身体の全ての器官が完璧に機能し、霊的また知的、感情的な応答をするのに必要なすべての素晴らしい能力をもつ、生きる人間へと変えられたのです。このような方法で創造された生き物は、他にいません。
この奇跡の説明に使われている言葉は、非常に鮮明です。ヘブライ語では、いくつかの単語は、それが意味する行動と直接的に関連する発音になっています。「息を吹き込まれた」と訳されているヘブライ語は、yip-pach(イッ・パフクッ)と表現されます。この音は小さな、内側での「爆発」(破裂)と、それに続いて喉から出る力強い息の流れを含んでいます。ですから、この言葉そのものが、実に鮮やかにその意味するところを表しているのです。
土のかたまりの唇と鼻の上に身をかがめられた時、主は無気力なため息をつかれたのではありません。主はその土の体に、力強く息を吹き込まれました。だからこそ、その体は、神のいのちそのものという驚くべき恵みを分け与えられたのです。
【祈り】
主よ、私のうちになしてくださった御業を、感謝します。主は私との交わりを楽しもうと望んでくださり、ご自身のいのちを私の中に吹き込んでくださったと宣言します。私の御父は、私を造られました。アーメン。