私のからだは主のためにあり、主は私のからだのためにおられます
聖書は、
「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた」(Ⅰペテロ2:24)
と言っています。
イエスは十字架の上で、ご自身のからだをもって、私たちの罪を負い、罪のためのささげ物となられました。イエスは私たちを罪から解放するために、私たちが負うべき呪いを十字架の上で自らの身に負ってくださいました。聖書はまた、こう言っています。
「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った」(マタイ8:17)。
神からすると、私たちの罪からの解放はすでに成し遂げられました。神からすると、それはすでに完了したのです。
興味深いことに、新約聖書は、癒やしを将来的なものとしてではなく、過去のものとして見なしています。私たちはイエスの死によって、すでに癒やされています。「その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた」のです。癒やしはすでに提供されているのです。私は時々、クリスチャンから、「私が癒やされることは神のみこころであるかどうかをどうやって知ることができますか」と質問されます。私は通常こう答えます。「あなたがイエスの血によって贖われ、献身的なクリスチャンなら、その質問は間違っています。『あなたが癒やされるのが神のみこころであるかどうかを知る』ことが問題ではありません。『神がすでに提供してくださっている癒やしをどのように受け取ることができるか』ということが問題なのです。」
神の目的は、パウロが言っているように、私たちの霊、たましい、からだのすべてを保つことです。
「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように」(Ⅰテサロニケ5:23)。
【祈り】
主よ、私のからだのためのあなたの備えを感謝します。私は、十字架の上のイエスさまの死によって、私は赦され、癒やされたこと、そして、神さまの目的は、私の霊、たましい、からだのすべてを保つことであると宣言します。私のからだは主のためにあり、主は私のからだのためにおられます。アーメン。