動揺しないで、しっかりと告白し続けようではありませんか
ヘブル人への手紙11章には、「信仰」の定義があります。これは、聖書の中で明確に定義されている唯一の言葉です。「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(へブル11:1)。ここに、信仰と希望の関係を見ることができます。信仰は、現在あるもので、希望は将来のものです。信仰は実体と呼ばれる現実的なものです。それは私たちの心の中にあります。信仰に基づいて、私たちは将来に対する正当な希望を持つことができます。しかし、正当な信仰に基づかない希望は、単なる希望的観測に過ぎません。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。 (ローマ10:9-10)
新約聖書では、「信じる」は動作を表す語で、静的なものでも知的立場でもありません。あなたの心の中にあって、新しいものへとあなたを導きます。「信仰」も動きを表す語です。信仰によって、私たちは義と救いを信じます。知的な信仰を持っていても、その人は何も変わっていないというケースがあります。聖書のすべての教理を知性で受け入れても、全く同じ状態のままなのです。しかし、心に信仰を持つとき、それは救いにつながります。
繰り返しますが、信仰は現在のもので、希望は将来のものです。聖書的な信仰とは心の中のもので、希望は思いの中のものです。パウロはその二つについて、興味深い描写をしています。「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう」(Ⅰテサロニケ5:8)。この箇所は、二つの武具について語っています。信仰は心を守る胸当てで、望み(希望)は頭を守るかぶとです。信仰は心の中にあり、希望は思いの中にあります。
【祈り】
主よ、あなたは誠実なお方であることを感謝します。私に希望を与えてくださいます。私は、心を守る胸当てである信仰と、思いを守るかぶとを身につけることを宣言します。私は動揺しないで、しっかりと告白し続けます。アーメン。