イエスは私たちに赦しを与えるために罰せられました
あるユダヤ人の男性が私に、自分がなぜイエスをメシアと信じないのかを、この ように話してくれました。「神があんなに苦しめたのだから、イエスは善人であっ たはずはない。」それはまさに預言者イザヤが言ったことです。
「私たちは思った。 神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと」(イザヤ53:4)。
しかし、イザ ヤは5節でこう言っています。
「彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎の ために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆ えに、私たちは癒やされた。」
この箇所では、二つものの取引が述べられています。私たちが赦され、平安を得 ることができるようにと、私たちの悪い行いに対する罰がイエスに下されたことで す。罪に対する罰が科されるまでは、平安は訪れません。十字架の上で何が起こっ たかについて、パウロがエペソ人への手紙で語っている箇所を見てみましょう。
実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのもの[ユダヤ 人と異邦人]を一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊 し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、 この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つの ものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架に よって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和 を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。(エペソ2:14-17)
「平和」という言葉が強調されていることに注目してください。罪人は、自分の 罪が赦された知るまでは平和も平安も得られません。イエスが罰せられたのは、赦 しを通して私たちに神との平和を得させるためなのです。(コロサイ1:19-2 0を参照。)
【祈り】
イエスさま、私のために十字架で死んでくださったことを感謝します。 イエスさまが罰せられたのは、私たちが赦されるためであり、赦されたことによっ て、私は神さまとの平和を与えられていると宣言します。アーメン。