イエスは、私たちに神の栄光を与えるために、私たちの辱めを負われました
ある日、聖霊が異言と解き明かしによって私に語りました。「カルバリの完璧な みわざを考えてみよ。あらゆる点で完璧、あらゆる面で完璧である。神は私に、イ エスがカルバリの十字架で何をされたかを完全に理解できれば、それは完璧で完成 されたものだと分かるだろうと示されたのです。付け加えるべきものも、そこから 省くことができるものも何もありません。すべての必要がそこで満たされました。 私は十字架についてもっと知りたいと思うようになりました。何年にもわたって、 聖霊は徐々に私に聖書を解き明かしてくださいました。
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが 、 決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、 私 も 世 に 対 し て 死 に ま し た 。 (ガラテヤ 6:1 4)
パウロはただ一つ、私たちの主イエス・キリストの十字架だけを誇りとしました。 パウロの時代には、十字架は辱めと忌まわしさの具現以外の何ものでもなかったこ とを考えると、それは驚くべき言葉です。
『A doctor at Calvary(カルバリの医師)』という本を書いたカトリック信者の 外科医、ピエール・バーベットは、十字架にかけられた人の肉体的経験を細部まで 正確に説明しようとしました。問題は、過去2世紀の間に十字架にかけられた人を 見た人がいないので、基準となるものがないことでした。十字架が辱めと苦痛の道 具として私たちにとって、いかに遠い存在であり、想像できないものであるかを思 い知らされました。
パウロは、自分がユダヤ人の血統であることや自分が開拓した教会、あるいは自 分が見た奇跡について誇ることはありませんでした。ただ十字架だけを誇りました。 それと同じ霊、すなわち、肉的な自慢やプライド、自己満足を捨て、イエス・キリ ストの十字架を謙虚に認めることができる霊が私たちのうちにもありますように。
【祈り】
イエスさま、あなたの十字架のみわざを感謝します。私は、イエス・ キリストの十字架を誇ります。イエスさまは、私に神の栄光を与えるために、私の 辱めを負われました。アーメン。