イエスは、私たちに神の栄光を与えるために、私たちの辱めを負われました
以前、私たち夫婦はソ連(現在のロシア)から逃れてきた二人のユダヤ人の支援 に携わったことがあります。この二人の女性にとっては私たちの慈悲が頼りでした。 彼女たちを助けるために、私たちは多くの痛みと問題を経験しましたが、神のあわ れみにより、最終的にはうまくいきました。ある日、私は二人のためにハイファの 急な丘を苦労して登りながら、不平をつぶやいていました。その日は暑く、彼女た ちはいつも非常に感謝してくれていましたが、大変な仕事だなと思っていました。 すると、神は私にこの聖句を示されました。聖書のどこにあるのかわかりませんで したが、この言葉が語られました。
ですから私はすべてのことを、選ばれた人たちのために耐え忍びます。彼らも また、キリスト・イエスにある救いを、永遠の栄光とともに受けるようになる ためです。(Ⅱテモテ2:10)
その経験から、私は自分の立場が、十字架のイエスの立場とはかけ離れているこ とに気づきました。私が耐えている不便さは、比較にならないほど小さいもので あったと。そして、その働きの目的は、神に選ばれた人が永遠の栄光を伴う救いに 入るのを助けるためだったことを。
「栄光」は私たちのゴールですから、私たち全員が「栄光」について考えること に時間を割く必要があります。もし、栄光のために支払うべき代価があるなら、払 うだけの価値があると私は信じます。私たちは、便利さと快適さの二つの偶像をあ きらめるように求められるかもしれません。自分の個人的な不便さや犠牲から生ま れるビジョンを見ることができるなら、いつの日か、私たちは自分がしたことに よって栄光の中にいる人々を見ることができるでしょう。
それがイエスの動機でした。ご自分のためにではなく、多くの子どもたちを栄光 に導くために、十字架にかかられたのです。
【祈り】
イエスさま、あなたの十字架のみわざを感謝します。私は、イエスさ まと同様に、便利さと快適さという二つの偶像をあきらめ、神に選ばれた人々を救 いに導く助けをすることを宣言します。イエスさまは、私に神の栄光を与えるため に、私の辱めを負われました。アーメン。