私はキリストにあって完全な者とされました
あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。(コロサイ2:8-10)
イエス・キリストによって与えられた、神の満ち満ちたご性質の中に入っていくこと、それが私の目標です。キリストは私たちの究極の目標であり、完成です。このことは、旧約聖書に記されているモーセの幕屋に照らし合わせて説明することができます。幕屋の構造は次の三つの部分に分かれていました。1)外庭、2)最初の垂れ幕の内側にある聖所、3)第二の垂れ幕の内側にある至聖所。この三つの部分は、それぞれ照らす光に違いがありました。
外庭の光は、太陽、月、星による自然光です。しかし、聖所の中には自然光はありません。聖所の光は、鉢の中の油で点火した、七本の枝からなる燭台によって照らされます。聖所の中に入ると、もはや自分の感覚ではなく、信仰によって生きるようになります。その先の第二の垂れ幕の向こうの至聖所には、光が全くありませんでした。そこに入る理由はただ一つ、神に会うためでした。人が誠実な心でその第二の垂れ幕の向こうに行くとき、神の臨在(ヘブライ語shekinah)という超自然の栄光で照らされました。それが究極の目標です。
その第二の垂れ幕の向こうには、神以外に私たちの心を引くものはありません。神は他の魅力は提供しません。神か、無かです。神が来てくださらなかったら、あなたは完全な暗闇の中に取り残されます。神を目標として生きるということは、他の魅力を追い求めないことを意味します。神ご自身、神だけです。私が求める光は、自然のものでも人工のものでもなく、超自然の光、つまり神ご自身の臨在です。
【祈り】
主よ、あなたが私のうちで働いてくださっていることを感謝します。私が求めるのは、ただ神さまご自身であり、キリストの完全性、すなわち神さまの満ち満ちたご性質であることを宣言します。私はキリストにあって完全な者とされました。アーメン。