私たちに癒やしを与えるために、イエスは打たれました
1943年、私は病気のために何か月も入院していました。救世軍から一人の女 性が来て、私を見舞い、祈ってくれました。その時、私は神からのことばを受け取 りました。「カルバリのみわざを忘れるな。すべての点で完璧、すべての点で完全 なそのみわざを。」その時以来、このことばを思い巡らし続けていますが、私はま だ十字架で起こったことの外側に触れたに過ぎません。十字架みわざは完全です。 どのような側面から見ても、十字架は完成しています。私たちの必要がどのような ものであっても、十字架で永遠に解決されているのです。
「簡単そうに聞こえるが、どのようにしたら癒やしを受け取ることができるの か」と思う人もいるでしょう。癒やしについては、多くの人が、「癒やすことが神 のみこころかどうかをどうやって知るのか」という疑問を持っています。
私たちが神の子どもであるなら、その質問は間違っています。癒やしは子どもた ちのパンです。
イエスは、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬[信じない者] に投げてやるのは良くないことです」(マタイ15:26)
と言われました。ツ ロ・フェニキアの女は正しい答えをしました。「主よ、私はパンを求めていません。 ただパン屑をください。そうすれば、私の娘から悪霊を追い出すことができま す。」その女は実に信仰がありました。パン一斤を与えられていながら、なおも病 気だった子どもたちよりも、はるかに大きな信仰を持っていました。父親は自分の 子どもにアイスクリームや骨付きのステーキを与えることはできないかもしれませ んが、世のすべての父親は食べ物を与える義務があります。父なる神は、私たち神 の子どもたちのパンをテーブルに用意しておられます。
私はその質問をこう言い換えたいのです。「すでに与えられている癒やしを、ど のようにして受け取ればいいのでしょうか。」信者にとって、癒やしと贖いは決し て未来のものではありません。私たちの相続を受け取ることは、私たち次第です。 すべての相続は、イエスの死によって保証された契約によって私たちに与えられて いるのです。
【祈り】
イエスさま、あなたの十字架のみわざを感謝します。私は、カルバリの イエスさまの完全なみわざを今すでに受け取っていることを宣言します。なぜなら、 私に癒やしを与えるために、イエスさまが打たれてくださったからです。アーメン。