私は、子羊の血と、私の証しのことばのゆえにサタンに打ち勝ち、死に至るまでも自分のいのちを惜しみません
「いのちは血の中にある」ことを学んできました(レビ記17:11参照)。
いのちを得たいのなら、その血をいただかなければなりません。私たちは、聖餐式を受けることによって、また証しのことばによってそれを行います。
私にとって、聖餐式にあずかることは非常に重要なことです。パウロは、コリント人への手紙第一11章25節でイエスのことばを引用してこう言っています。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」多くの教会はその言葉は、「それを行う時は」と考えています。私がこれまで出席した中でいくつかの素晴らしいと感じた礼拝は、その事実をしっかりと保っていた聖餐式をしていた礼拝でした。
ある時、妻のルースと私は、聖餐式をもっと頻繁に行うべきだと感じました。私は家族の祭司として、毎朝のデボーションの時間に聖餐式を行うことにしました。すべてのクリスチャンがそうすべきだと言いませんが、私たちがそうしてきたことに感謝しています。それをしていなかったら、自分たちの生活から何かが抜け落ちているように感じていたでしょう。
毎日、聖餐式をするときに私たちはこう言うのです。「主よ、このパンをあなたのからだとして、そしてこの杯をあなたの血として受け取ります。」私はシンプルで具体的にこう言います。「主よ、あなたを覚えてこれを行います。あなたが来られるまで、あなたの死を告げ知らせます。」聖餐式において、私たちにあるものは過去ではなく、十字架であり、私たちが待っているものは、未来ではなく、再臨です。イエスが来られるまで十字架を覚えて聖餐式を行います。私たちは、イエスの血の中にあるいのちを本当に用いているかどうかを考えさせられるのです。
【祈り】
主よ、子羊の血を感謝します。私は、聖餐式を通して血の中にあるいのちが与えられています。私は、子羊の血と、私の証しのことばのゆえにサタンに打ち勝ち、死に至るまでも自分のいのちを惜しまないことを宣言します。アーメン。