キリストの安息に入るために、恐れる心を持とうではありませんか
イスラエル人が神から与えられた相続に入らなかった根本的な一つの原因は、不信仰でした。また、私たちをその相続からも遠ざけるのも、不信仰です。へブル人への手紙の著者は、イスラエル人の状況を私たちに当てはめて、こう言っています。
「彼らには、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです」(へブル4:2)。
神のことばが私たちのところに届いても、信仰によって結び付けられなければ、それは益にもならず、神の祝福の目的を成就することもありません。神のことばを私たちの人生に働かせるためには、信仰が必要です。
次の節は、「信じた私たちは安息に入る」(3節)と言っています。真の信仰は私たちを安息に導きます。あなたは、その信仰の安息を得ていますか。その条件を満たしていますか。それとも、心をかたくなにしたイスラエル人のような危険な状態ですか。彼らは不信仰のゆえに、神が用意してくださっていたものすべてを逃してしまいました。もしそれが今の私たちに起こったとしたら、何という悲劇でしょうか。しかし、へブル人への手紙の著者は、もし、その安息に入ることに努めなければ、それは起こりうる、いや、確かに起こるとはっきりと言っています。
その少し後の節で、この教訓を具体的に当てはめて、こう言っています。
「ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか」(へブル4:11)。
聖書の中で「ですから」という言葉が出てきたら、どういう理由なのかを知る必要があると、私は以前から言ってきました。上の節は、「ですから」で始まっています。つまり、旧約聖書のイスラエル人のように道をはずしてはいけない、ということです。不信仰に陥らないようにしましょう。信仰の中を歩み、信仰を保ち、育て、互いの信仰を強め合い、励まし合うことに努め、専念しましょう。不信仰によってイスラエルが犯したような、恐ろしく悲劇的な過ちを犯さないようにしましょう。不信仰と不従順の間には、直接的な因果関係があることを忘れないでください。
【祈り】
主よ、あなたの安息に入ることが約束されていることを感謝します。真の信仰は、私を安息に導くと宣言します。私はキリストの安息に入るために、恐れる心を持ちます。アーメン。