- 私は神の子どもです -
私は、英語 KJV 訳聖書のエペソ人への手紙1章6節の翻訳が気に入っています。 「受け入れる」という語が使われているからです。「私たちを愛する方にあって受 け入れてくださった神の恵みの栄光がほめたたえられるためです。」(訳者による 直訳)
繰り返しますが、神が私たちを受け入れると言う時、単に容認されているという 意味ではありません。愛する者とされています。私たちは神にとって特別で、愛と 配慮の対象なのです。この宇宙で神が気にかけているリストの第一位なのです。私 たちを隅に追いやって、「待ちなさい。今は忙しいから」とか、「静かにしなさ い」とは言いません。「どうしたんだい。私の愛する子。さあ、こっちへ来なさい。 長い間待っていたよ」と言ってくださいます。
それは、放蕩息子の話の父親のようです。彼は息子が帰って来るのを、外に出て 待っていたのです。他の人が「ほら、あなたの息子さんが帰って来ました」という 必要はありませんでした。それを最初に知ったのは父親だったからです。父親は、 家の者の誰よりも先に知っていました。キリストにある私たちに対する神の思いも そのようなものです。私たちは拒絶されません。見下されません。雇い人ではあり ません。
放蕩息子は帰って来た時、自分は雇い人になろうと思いました。「お父さん、私 をあなたの雇い人の一人にしてください」と言うつもりでした。しかし、その話を 注意深く読むと、その息子が自分の罪を告白したとき、父親は彼の言葉を遮って、 最後まで言わせませんでした。決して「あなたの雇い人の一人にしてください」と は言わせなかったのです。それどころか、こう言いました。
「急いで一番良い衣を 持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでい たのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」(ルカ15:22-2 4)。
ハレルヤ!
【祈り】
イエスさま、あなたが私を贖ってくださったことを感謝します。私は神 さまの恵みによって、「愛する方にあって受け入れられている」ことを宣言します。 私は神の子どもです。アーメン。