辱めからの解放

イエスは、私たちに神の栄光を与えるために、私たちの辱めを負われました

辱めとは、残酷で醜い感情で、クリスチャンの間でも見られます。辱めは多くの 場合、性的虐待、学校で嘲笑されるなどの精神的虐待の結果として生じます。ある 校長先生がクラスの全員の前で一人の少年に立つように命じ、「彼以外はみんな試 験に合格した」と発言した話を聞いたことがあります。立たされた少年が感じたの は、辱め以外の何ものでもありません。幼少期の様々な経験が辱めの原因となり得 ます。ずっと昔に起こったことほど、取り除くのが難しいことがあります。最初に 入ってしまったものほど、最後まで残ってしまうのです。 

西洋で最も多い辱めの原因は、おそらく性的虐待でしょう(クリスチャンの中で も)。私は、このことによる多くの被害者に接してきました。彼らは十字架のもと に来ることによってのみ、その辱めから解放されることができます。 

次の預言は、イエスが私たちのためにしてくださったことを説明しています。 

神である主は私の耳を開いてくださった。私〔イエス〕は逆らわず、うしろに 退きもせず、打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、 唾 を か け ら れ て も 、 顔 を 隠 さ な か っ た 。 (イザヤ50:5-6) 

イエスは、「私は背中を任せた」と言いました。イエスは自分自身を救うことも、 御使いの軍勢を呼んで助けてもらうこともできました(参照マタイ26:53)。 しかし、そうすることなく、ご自分の背中を任せました。イエスが鞭で打たれる場 面は、私たちには想像も及びません。鞭の紐には小さな金属片や骨が埋め込まれて いたため、それは恐ろしい光景です。その紐で打たれると、皮膚を裂き、中の肉が 露出します。イエスが私たちのために耐え忍ばれたのは、それほどのことだったの です。そして、イエスは侮辱されても、唾をかけられても、ご自分の顔を背けるこ とはありませんでした。十字架の上で、イエスは私たちの辱めの身代わりとなられ たのです。

【祈り】 

イエスさま、あなたの十字架のみわざを感謝します。私は、十字架の 上でイエスさまが私を辱めから解放してくださったことを宣言します。イエスさま は、私に神の栄光を与えるために、私の辱めを負われました。アーメン。

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