父がその子をあわれむように 主は私をあわれまれます
詩篇84篇6節に、こう書かれています。
「彼らは涙の谷を過ぎるときも そこを泉の湧く所とします。」
クリスチャンとして主の道を歩み、異言も語り、60年近く経った私は、ある変化を経験しました。私の内側に「あわれみの泉」が開かれるという、全く新しいことが私の中に起こったのです。私は長年にわたって神の愛を経験し、自分の家族も愛してきましたが、この「泉」は、それまでに経験したことがないものでした。
この泉の源は、私デレク・プリンスとは別のところにありました。私は、イエスが「深くあわれまれた」(参照例/マタイ9:36、マルコ1:41)と言っている聖書の意味を理解し始めました。神がご自身のあわれみの心を私に分かち合っておられることに気づき、「主よ、この泉が決して汚れることがないように、そして枯れることがないようにしてください」と祈りました。その泉を湧き出させる時を決めるのは、神だけです。あわれみの泉が私のうちにあふれる時、その泉は人々を私に引き寄せます。彼らがなぜ私に引き寄せられるのかわかりませんが、自分たちが切望しているものを感じ取るのでしょう。神はご自分の聖い愛で私たちが互いに愛し合うことを願っておられると信じます。
神は、私の内に他のこともしてくださいました。孤児、未亡人、貧しい人々、虐げられている人々に対する超自然的な関心を持たせてくださいました。信仰や義について話したとしても、本当に私たちを必要としている人々のために何もしないなら、それらの言葉は空しく、無意味です。私たちを必要としている人はたくさんいます。私たちの周りには、愛を必要としている人々が至るところにいます。彼らは孤独で、誰からも気にかけてもらえず、解決策もなく、絶望しています。遠くに行かなくても、すぐ近くでそのような人々を見つけることができます。あわれみは神の目的です。あわれみこそ、神が私たちのうちに現れるのを待っておられるものなのです。
【祈り】
主よ、あなたが私をとても大切に思ってくださっていることを感謝します。神さまのあわれみの泉が私のうちに流れ、困っている人々や絶望している人々に流し出していくことが私の願いであると宣言します。父がその子をあわれむように、主は私をあわれまれます。アーメン。