私はキリストにあって完全な者とされました
ある人は、「完全」という言葉を恐れます。完全とは、決して間違ったことをしない、言わない、ミスをしないことだと思っているからです。そのような人たちは、「それが目標なら、私はもうあきらめる。達成できないから」と言います。しかし、「完全」という言葉は聖書に出てくるため、私たちはそれから逃れることはできません。いずれ向き合うことになるのです。
聖書の中で、「完全」という語の意味は、おもに三つあります。一つ目は、「成熟」、「十分に成長した」です。これは、何も恐れる必要のない妥当な目標であると、私たちは納得できます。二つ目の意味は、「すべて揃っていること」、つまり、欠けているものがないことです。しかし、この二つの意味は必ずしも両立するとは限りません。ある人は十分に成長していても、どこか欠損している部分があるかもしれません。この場合、その人は成熟していますが、すべて揃ってはいません。別の人は、すべて揃っていて、機能はしているけれども、十分に成長していない、成熟していないかもしれません。私たちは「完全」をイメージする中で、成熟と完全性の両方を考慮する必要があります。
エペソ人への手紙4章12節の「聖徒たちを整えて」の「整えて」の部分は、英語のKJV訳聖書では「完全にする」という語が使われています。元のギリシャ語では、「関節をつなぐ」や「組み合わせる」を意味します。それに関連する語がへブル人への手紙11章3節で使われています。「この世界が神のことばで造られた」。この「造られた」とは、「組み立てられた」、あるいは「組み合わされた」です。つまり、「完全」という言葉には、 すべての部分が他の部分と調和して機能し、それぞれの役割を果たすように組み合わせる意味もあるのです。「成熟度」、「完全性」、「適切な一致」という三つの異なる概念があり、それらは全体が調和して機能するように組み合わされます。聖書は、それが目標だと私たち信者に語っています。
【祈り】
主よ、あなたが私のうちで働いてくださっていることを感謝します。神さまが私を「整え、完全にしようとして」おられることを宣言します。私を成熟させ、整え、完全にし、神さまが私のために用意した場所に私を調和させてくださいます。私はキリストにあって完全な者とされました。アーメン。