父がその子をあわれむように 主は私をあわれまれます
聖書の中で、あわれみはどのように描かれているでしょうか。マルコの福音書1章から一つの出来事を見てみましょう。
さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。(マルコ1:40-42)
「イエスは深くあわれんだ」と言っています。この反応は、はらわた(腸)に関係しています。あわれみは、腸の感覚なのです。英語のKJV訳では、「あわれみのはらわた」(Ⅰヨハネ3:17)と書かれています。「あわれみのはらわた」は、私たちの最も深い感情がある場所で、心臓の中ではなく、腸の中にあります。ここは、すべてが始まる場所であり、すべてのものの源です。
私の最初の妻リディアが自叙伝を書いていたとき、「私のはらわたが感動した」という表現を使いました。本の編集者は、その感情の英語表現は正しくないと説明しました。しかし、私が知っている他のすべての言語 (ラテン語、ギリシャ語、ヘブル語)では、体の最も内側にある部分は心臓ではなく、腸と呼ばれます。愛であれ、恐れであれ、憎しみや他の感情であっても、その源は、あなたの最も深いところ、「腸」にあるのです。
【祈り】
主よ、あなたが私をとても大切に思ってくださっていることを感謝します。私は、イエスさまが深くあわれんだように、私の内側の最も深い場所で同じように反応することを願います。父がその子をあわれむように、主は私をあわれまれます。アーメン。