私は信仰によって義とされました
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用 意ができたのだから。花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。そ の 亜 麻 布 と は 、 聖 徒 た ち の 正 し い 行 い で あ る 。 」 (黙示録19:7-8)
「義」を意味するギリシャ語は二つあります。一つは dikaiosune で、もう一つ は dikaioma です。dikaiosune は、抽象的な概念としての義です。dikaioma は、 行いに現れる、あるいは義の行いです。イエスを信じる私たちには、イエスの義
(dikaiosune)が与えられました。イエスの義によって義とされたのです。私たち が信仰によって生きる時、与えられたその義を行い(dikaioma)によって表しま す。それは義から出た実、義の行いです。
興味深いことに、この黙示録の中では、dikaioma の複数形である dikaiomata が使われています。「その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである」は、示唆に 富む言葉です。「花嫁は用意ができたのだから」とは、花嫁は正しい(義の)行い によって、準備をしたということです。
私がこれまで見てきたすべての文化には、結婚の儀式に関して一つの共通のルー ルがありました。それは、花婿が花嫁の準備することは決してなく、常に花嫁が自 分で準備するというものです。花嫁だけにその責任があります。聖書は、キリスト の花嫁である教会が、与えられた義の行いによって自分自身を整えたと言っていま す。キリストの義を受けることで婚礼が行われるのではありません。教会は、私た ちに惜しみなく与えられたキリストの義の賜物のゆえに、私たち信者が行う義の行 いで整えられなければならないのです。
【祈り】
イエスさま、あなたの犠牲を感謝します。私は信仰によって生き、与え られた義を表し、信仰を行動に移して義を行うことを宣言します。私は信仰によっ て義とされました。アーメン。